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夏がくるといろんなことを思い出す。
去年の夏のこと、その前の年の夏のこと、何年も前の夏のこと。 暑ければ暑いほど、太陽が眩しければ眩しいほど、 くらくらっとしてきて現実から過去に繋がることがある。 繋がったあとにいつもふと思う。 過去と今の繋がりを。今の自分の立ち位置を。 北東北の夏は涼しくもなく、普通に夏らしい夏です。暑い。 それでもあの冬がくることを思えば、貴重な暑さのように思います。 夕方、最寄駅まで歩いている道すがら、なんか人の声が聞こえると思ってその方向を見ると、横の道からランニングをしているちょっと小太りのおっさんがこちらへ向かって走ってきた。ん?何か喋ってる?と思ったら、自分の脇を走り抜けていく時に「ファイト!ファイト!」と掛け声をつぶやいているのが分かった。フェードアウトしていくその声と、たるんだ背中と、無駄に勢いのいい腕の振りっぷりを眺めながら、「ファイト」の言葉がなんだかおかしく感じてきて少し笑ってしまった。 休日の夕方の上り電車は空いていて、本を読むのには集中できる感じだった。 途中で家族連れが乗ってきた。ぱっと見て、それがお母さんと娘二人と母方の祖父母で、どこか買い物にでも行ってきた帰りなんだろうなって分かった。さすがに横に5人並んで座るだけの席は空いてなかったけど、自分の隣に4人は座れたから、お母さんだけ向かいに座って、5歳と9歳くらいかな、女の子ふたりとじいじばあばが並んで座った。絵本のような本を読む下の子を真ん中にして、お姉ちゃんとじいじとばあばが彼女が本を読んでいる姿を、何を喋りかけるでもなくなんとなく見つめていた。自分の親と同い年くらいに見えるその夫婦が、孫の姿を見ながらどんなことを思っているのかと、対面のガラス窓に映る彼らの姿を眺めながらぼんやり考えていた。 漠然と一緒に一緒の家に帰るのかと思っていたら、祖父母だけが途中で電車を降りた。特にいろいろ話したりすることもなく、「じゃぁね、またね、ばいばい」と声をかけて降りていって、向かいに座ってたお母さんが娘の隣に移動してきた。じいじとばあばは、電車を降りるとなんの迷いもなく、すぐその場で振り返り立ち止まり、電車が動き出すのをじっと待っていた。自分だったら―しかもそれが彼女を見送るような時だったら―照れたりせわしなくなったりするだろうな、なんて思った。二人は手を振るでもなく、それとなくこちらを見ながら、孫たちもちらっと見たり、下を向いたりしていた。そして、電車が動き出したその瞬間に、少し表情が変化して夫婦は手を振って、お母さんと女の子もそれに応えて手を振った。見えなくなるまでのほんの少しのあいだ、でも確実にお互いが見えなくなるまで手を上品に振り続け、見えなくなると、少し間を置いてから、特に会話もなくまた下の子が絵本に目を向けて、お姉ちゃんとお母さんはなんとなくその子の方を見ていた。 2日ほど帰っていた埼玉の実家から東京の自宅へ戻る、その電車に乗っている時間が、 普段長い時間電車に乗って通勤することもなくなったせいか、とても長く感じた。 たぶん、それが長く感じたり、なんとなく小説に集中できなくてそんな家族の姿を眺めたりしていたのは、電車を待っている駅の向かいのホームで、先に到着した下り電車から降りてきた人の中に、確か朝からお出かけしていた母親の姿を発見してしまったからだと思う。家族でも友人でも恋人でも、自分の知らない素で過ごしている姿を垣間見るのは、そういう姿を日常の中で見ることがほとんどないだけになんだかはっとしてしまう。 たまに実家へ帰った時、家の中で顔を合わせることはもちろんあるけど、一緒にどこか行くようなこともないから、母親が歩いているっていう人として当たり前の姿を見ることもほとんどないんだなってことに、遠めから辛うじて分かる程度に少し足を気にして歩く様子を見て気付いた。春に簡単な手術をした膝の具合がまだ完璧には良くなっていないんだなと知る。 先日、自分が関わった初めてのがちがちの報道番組で高齢者のリハビリテーションの問題を扱い、「高齢者」という観点から、ふだん祖母と接している母親に通ずることがあると思って、暇だったら見てみ?と薦めてみた。それで番組をみてくれたんだけど、その感想が自分の予想していた祖母を見守る側の視点ではなく、自分を当事者としたところからの感想だったから少し意外だった。でもそれは、少し考えれば分かることだし予想もできたことなんだけれども、母親の歩く姿をみるまで、それに気付かなかった。大したことではないけれど、薦める前にそれに気付くべきだった。 鈍いな、自分。
まだこのブログが残ってたなんて。
無責任だけど。自分で消さなきゃ消えないのだね。 今は赤坂の事務所内の編集室、社内には誰もいない、 手元には「サッド ヴァケイション」のDVDと雑誌「papyrus」。 彼女が合宿免許に行っていて、 「合宿免許」ってのが懐かしくなって、 その頃のこと、ブログに書いてたなぁって、 ためしに「エキサイト」検索してみて、きた。 自分で消さなきゃ、消えないのだ。 自分で消せば消えるし。消してないから残る。 残るから存在していて、戻ってくることができる。 今日はとても大きな出来事がありました。 この仕事をするきっかけとなった番組を作った人。 その人と繋がった。ついにここまできた。 何かを動かすためには、どこかに力を加えなきゃいけない。 たぶんね。うーんって念力でもしかしたら動くかもしれないけど。 それじゃ動かなかった時にどうしていいか分かんないや。 いつまで念じていりゃいいのかも分からんし。 だから、いろんなとこをつついてみるねん。 始発で1ルームの殺風景な部屋に帰って、 シャワー浴びて、燃えるゴミ捨てて、CD持ってまた赤坂へ。 あ、DVD返すの忘れないように。洗濯もしようかな。 そしてそのまま成田までドライブ。 もうなながつも終わるよ? でも、夏はまだこれから。 はちがつになってもくがつになっても、 台風が来て、葉っぱが黄色くなって、雪が降ったとしても、 今年の夏はきっと終わらない。
近頃は節目の時期のせいか、友達のブログなどを読んでいると、
普段とは少し違った内容の非日常的な言葉が綴られていることがある。 短い言葉の中にたくさんのモノが凝縮されている表現に触れると、 その「凝縮」を実感できるような言葉に接すると、なんだか惚れ惚れする。 自分にはそんなことできないな。言葉でも、他の表現手段でも。 でも、この写真は凝縮されとる。伝わらないだろうけど、少なくとも自分にとっては。 これ、大阪での2年間のすべてのような気がする。 勝手に載せます。でも期間限定かな。まだこの写真を見れてないまぁれぇが見るまで。 (見たかな。消しました。) この人たちがいなかったら、どんな大阪生活になっていたのかな。 しかし不思議な縁だったと思う。 あんなに多くの飲み会をやってきたのが奇跡的。 だってまったく共通点とかない。ばっらばら。 九州を離れた時に強烈に実感したことは、自分という人間が、 いかに周りにいた友達や先輩や先生との関係の上に存在していたのかということ。 自分の頭で考えて、行動して、ってやってきたつもりだったけど、 一人になったらけっこう薄っぺらな自分がいて、そう気づいた。 大阪での生活は、あまり多くの人と関わることはなくて、一人でいることの方が多くて、 自分の内面と向き合うようなことが多かったと思う。もし「それだけ」になっていたら、 自分はもっと悲劇的なことになってたかもしれないなとふと思う。 この変てこな関係があって、飲み会があって、というそれだけのことが、 多分自分の中で何か良いバランスを生んでたような気がするな。 もしかすると、他の人らにとっても、少しは良い場だったんじゃないかなと思う。 そうあったらいいなと思う。 最初で(多分)最後の4ショット。 さて今日で3月も終り。 桜は満開なのに、すごく寒いです。 おわり。
式が終わってからの「総長主催祝賀会」で、
晴れ間の下、人の渦から外れた隅の隅のほうで、 友達と話しながらビールをがばがば飲んでいたら、 空きっ腹に飲んだせいか、お外で気持ち良く飲んだせいか、 ビールごときで珍しく少し酔っ払った。 先生の研究室に行くのに、少しも緊張したり、 躊躇ったりしなかったことが多分その証拠。 ちゃんと先生は研究室にいらっしゃって、 でも全く卒業式のことについて知らせを受けていなかったらしく、 しきりに「何も聞いていなくてねぇ」とおっしゃっていた。 卒論の指導で、特に4回生の一年間は接することが多く、 お世話になった。発表も随分したし、質問に行ったりもした。 でも、研究以外の会話ってあまりしたことがなかった。 寡黙といえば寡黙な人だと思う。 言葉の扱いにもすごく慎重な人に感じる。 それは、先生自身が話す言葉にも垣間見えるし、 自分のレジュメの細かい言葉遣いに対する指摘からも伺えた。 言葉について何十年も考えてきた人だから、当たり前のことかもしれない。 当たり前と言うことができるのは、この人が研究者である前に一人の哲学者だから。 先生がふとこんなことを言った。 「君は完璧主義だから。 肩の力を抜いて、気楽に」 こういう発言を、思えばまったくしない。 「こういう」がどういうものか説明するのが難しいけど、 こう言ってもらった時、ものすごくびっくりした。 たった二行の言葉だけど、 この二行は自分にとって、 とてつもなく大きな言葉だった。 重たかった。泣きそうになった。 別に面と向かって、「贈る言葉」みたいに言ってくれたわけじゃさらさらない。 何かの会話の合間に、ぼそっと、下手したら聞きそびれていたかもしれない、 そうやって言ってくれた言葉。それもまた先生らしい。 卒業式のこと、思うことがたくさんあって、 何からどう書いたらいいのか分からない。 何かを書きたい気持ちはすごくあるんだけど。 多分すぐに言葉にすることができないんだろうなと思う。 あんまり急いで喋らない方がいいんだろうなとも思う。 たくさんの言葉が必要なわけではなくて、 短くても、自分の感情にぴったり合った言葉を、 ゆっくり吐き出したいなと、先生の言葉を思い出して、 そんなことを思う。 徐々に、徐々に。 ![]() なんか目が開いてないですね。 顔も少し赤らめているような。 泣いていたのかもしれません。 単なる酔っ払いかもしれません。 単純に携帯で撮ったから、 写りが悪いだけかもしれません。 先生はとても柔和な顔つきでありますね。 写真で見るとまた新しい発見があります。 ここだけの話、いまだに会う前に恐怖感を抱く、 少なくとも自分にとっては「怖い」先生です。 表情も怖い時があります。真剣な眼差しの時もあります。 でも、この写真での先生は、今まで見たことのないくらい、 とても穏やかな表情に見えます。 記念の一枚。
昔母親が送ってきた、お湯を注げばすぐ完成♪する
「ひじきごまスープ」と「もずく味噌汁」が部屋の奥で発見される。 ろくなものを食べてないから多分見かねて、 簡単に出来て、かつ栄養があるものを送ってくれたんだと思う。 確か一袋くらい食べた記憶はあるんだけど、あまりおいしくなくて、 なんかめんどうだし、すっかり放置していた。 腐りそうもないものだけど、一応賞味期限が切れてた。 持って帰っても仕方ないから、残りを全部捨てた…。 ゴミ箱に投げ入れて、凹んだ。
今日も走る。今日はいい天気になりそう。でも寒い。
走っていると、物事をとてもシンプルに考えることができる。 いきたい場所までまっすぐに向かっていくことができる、というか。 余計な寄り道へと迷い込む余地がなくなる。 長い距離を歩いている時もそう。 うまく言えそうでうまく言えないけど、 とにかく今は走らな。走って、考えて、頭の中をシンプルにして、疲れて、 慢性的筋肉痛状態になるくらいが、身体的にも精神的にもちょうどいい。
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